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日ASEAN交流史

日本とASEAN諸国の交流史

かけがえのないパートナーシップを築いている日本とASEAN諸国。それは、さまざまな出来事と長い年月を経て育まれてきたものです。ここに、その交流の歴史をひも解いてみましょう。

有史以前

伝説の時代

日本と東南アジアの
民話に共通性

歴史上、日本と東南アジア諸国との間の交流の記録があらわれるのは8世紀からですが、有史以前から何らかの交流があったのではないかと考えられています。

特に近年では日本と東南アジア諸国との神話や民話の共通性が指摘されており、「羽衣伝説」や、海と山との兄弟関係について語られる「海幸山幸物語」などは、東南アジアで伝えられている民話との間に共通性があるといわれています。

こうしたことから日本と東南アジア諸国との間には、伝説の時代から交流があったことが想像できます。

8世紀ごろ

遣唐使の時代

インドシナ半島や
安南(ベトナム)と接点が?

日本からの留学生が中国大陸に渡る遣唐使の時代、遣唐使たちを乗せた船が東シナ海の暴風雨に巻き込まれて南シナ海まで流され、ついにはインドシナ半島に漂着したといわれています。

また、唐の玄宗皇帝に登用された遣唐使の阿倍仲麻呂は、安南(現在のベトナム中部地方)で現代の知事のような職務に任じられたことがあったという記録があります。

15世紀~16世紀ごろ

琉球王国による中継貿易の時代

琉球(沖縄)と東南アジア
諸国との貿易が活発に

15世紀に入ると、琉球(沖縄)が中心になって東南アジア諸国との間で活発な貿易が行われます。貿易船はマラッカ(マレーシア)、シャム(タイ)、ルソン(フィリピン)、ジャワ(インドネシア)などから象牙や香辛料、染料を仕入れ、明(中国)と朝貢貿易(※)を行っていました。

また日本や朝鮮半島にも来航して、交易品を転売していたようです。

琉球の首都・首里(那覇)に建てられた首里城は、東南アジア諸国や中国からもたらされた交易品や文化が融合した独自の様式が取り入れられたことで知られています。

琉球が中国と東南アジア諸国との間を中継してつないだ貿易ルートは、後の時代の朱印船貿易にもつながっていきます。

朝貢貿易:当時明が行っていた近隣諸国との貿易形態。明に対して貢ぎ物をささげ、それに対して明は物品を与えていた。

16世紀~17世紀ごろ

朱印船貿易と日本町の時代

朱印船貿易により東南アジア
各地で暮らす日本人

16世紀頃の東南アジアと朱印船の航路
16世紀頃の東南アジアと朱印船の航路

戦国時代後期にはポルトガル商人を介した南蛮貿易が始まりました。ポルトガル人やスペイン人たちは、 世界有数の産出国であった日本で銀を手に入れて、東南アジア各地との貿易に用いました。やがて、直接貿易にたずさわる日本人商人があらわれ、こうした商人の貿易船を保護し、貿易を奨励したのが豊臣秀吉でした。

その後、日本を統一した徳川幕府は、こうした貿易船に朱印状を発行し、朱印船貿易が始まります。日本の銀や硫黄と、現地の生糸や絹織物などの交換を目的として、東南アジアの国々と貿易を行うようになりました。

朱印船貿易によってマニラ(フィリピン)やアユタヤ(タイ)には1,000人を超える日本人が住み、東南アジア全域に日本町・日本人居住地が誕生しました。この時代、東南アジアで暮らした日本人は、1万人にのぼるといわれています。

かつて日本町があったベトナム・ホイアン(当時フェホォ)に残る「日本橋」
タイ・アユタヤにある日本人町跡地

1633年に徳川幕府による鎖国政策が開始されると、こうした朱印船貿易は急速に減少し、日本町も姿を消していきます。

19世紀後半~1950年代

交流の再開と太平洋戦争の時代

不幸な歴史を乗り越え
国交回復へ

日本の鎖国によって途絶えていた東南アジア諸国との交流が復活するのは、明治維新によって開国がなされてからのことです。

貿易の中継地であったシンガポールを中心に、日本から雑貨、薬、呉服などを扱う行商人たちの進出などが始まりました。また、多くの日本人が仕事や投資先を求め、東南アジア諸国へ移り住みました。

その後、日本は1937年に始まった日中戦争の行き詰まりを打開し、石油などの資源を確保するため、南方に進出する南進政策を開始。東南アジア地域を占領していきました。

1945年の日本敗戦後、1951年のサンフランシスコ講和条約により日本は連合国との関係を復活させ、国際社会へ復帰。これを機に日本は東南アジア諸国との国交回復も果たしていきます。賠償の支払いや無償経済協力も開始され、その後の東南アジア諸国への本格的な経済技術協力へとつながっていきます。

日本の経済技術協力は日本企業の進出のきっかけになるとともに、東南アジア諸国の経済発展に寄与しました。

1960年代~現在

新たな交流の時代

東南アジア諸国独立、
新たな交流へ

このような国交回復後、日本の経済技術協力や企業の積極的な進出などにより、日本と東南アジア諸国との間で再び交流が深まりました。

その一方で日本の急速な経済進出は両者間で一部摩擦を生み出しました。

福田赳夫総理(当時)の
マニラにおけるスピーチ
(写真提供:内閣広報室)

こうした中、1977年、福田赳夫総理(当時)は訪問先のフィリピン・マニラにて、

  1. 日本は軍事大国にならない
  2. ASEAN諸国と「心と心の触れあう」関係を構築する
  3. 日本とASEAN諸国とは対等なパートナーである
という、3つのASEAN外交原則「福田ドクトリン」を提唱しました。

以後、ASEAN重視の外交原則は後の政権にも引き継がれ、日本とASEAN諸国は友好関係を維持・強化していきます。

内閣府主催
「東南アジア青年の船」事業
写真提供:内閣府

現在、日本とASEAN諸国間では貿易、投資、観光などの経済活動、政府開発援助(ODA)事業などにみられる技術協力プロジェクトや、人材育成事業の実施や留学生の受け入れ・派遣などにみられる人物交流など、さまざまな分野での交流が政府・民間レベルで活発になっています。

また、日本とASEAN各国との二国間での経済連携協定の締結・発効に加え、2008年12月には、ASEAN地域全体との幅広い経済関係を強化する「日・ASEAN包括的経済連携(AJCEP)協定」も発効しました。

さらに、ASEAN地域と日本を含む広範な地域の平和、安全および経済の発展についても、さまざまな国際的な枠組みで話し合い、協力関係を築いています。

日本とASEAN諸国の間では「共に歩み共に進むコミュニティ」という目標に向けて、これまでの交流の歴史をはるかに超える多様性と厚みをもった交流が行われています。